こんにちは!
早稲田大学商学部という、いかにもリア充そうな大学・学部に属してなお彼氏いない歴をアップデートし続ける私たちです、自分自身に日々問い、他人からも攻め続けられています。
「なぜ彼氏ができないんだろう」と
・可愛くも美人でもないけど、せめて中の下だと思ってる(自撮りブスは公認)
・アスリートなだけあって体型はいたって健康(ちょっと行き過ぎ説)
・とはいえメイクも身だしなみも人並みに気を付けてはいる
・早稲田の名に恥じぬよう一般常識や教養もまあまあある(偏差値は低いけど)
要素を並べただけでも不器用もいい感じですね。
先日これのアンサーになりそうな記事を発見したんです。
ワセジョを構成する要素

きまじめで融通がきかず、きさくでけなげできかん気で、なまじ男子よりもあたま回転がはやいものだからバカを愛でることを知らず、かといって個性と特性と天性をくべつできるほどの世知もなく、理想のなにものかになれるものなど学年にひとりいるかいないかなのに、このわたしこそがひとかどの人物にならなければいけないし、なれるはずだという幻想から逃れられず、映画と演劇と文学に造詣があるふりをしつづけ、過食か拒食におちいりがちなここにいるしんどい娘たちは、ワセジョと総称される。
生粋のワセジョを称される清水博子著書「Vanity 」の一節だそうです。
ワセジョをひと口にいっても表現するのにも込み入った言葉を並べないと表現しきれない。この辺にもすでにワセジョらしさを感じます。
ずばり言いますとこの表現、あたっています。要素にまとめると
『生真面目・きさく・健気・頭の回転が速い・上昇志向』
だけど『融通が利かない・バカが苦手・夢見や』という感じでしょうか。
ワセジョはなぜ幻影をもつのか

ワセジョの歴史は古く、1939年に4人の学生が入学したことに始まる。早稲田大学ができて59年目のことだった。それ以降、男社会の中で戦ってきた女学生たちは、さまざまな物語の中で語られるようになる。「負けん気が強く、女性らしさに欠ける」というような文脈で。「何者かになりたい」女学生たちは、数多のワセジョイメージに自らを寄り添わせていく
「何者かになりたい願望」こそ幻影をもってしまう理由だとこの記事に書いてありました。男性の世界に足を踏み入れ、負けないように生きていく女性の半端でない上昇志向が生んだイメージなのですね。
「何者かになりたい願望」は私にもありまして「エアロビクス界にイノベーションを起こしたい」だとか躊躇なく言ってしまうように、組織に染まらず飛びぬけたい願望はどこかに持っています(笑)
ワセジョがこういった傾向を持つ理由として、この「何者かになりたい意識」がマズローの最上位欲求である「自己実現の欲求」を満たすための条件のような気がしました。つまり
「何者かになれた状態=自己実現」の公式が必要十分条件でないにせよ成立しているのかもしれません。私はこれに近いです。
ワセジョという幻影はモテない理由なのか

『この「何者かになりたい願望」はあくまで理想であり、ワセジョの常識は高田馬場というものすごく小さな世界でしか通用しない、そんな脆弱な威は早く脱ぐべきだ』
とこのブログに書いてありました…
そそそそうなんですね。(ちょっとショックだった人←)
ああ、だから他大学の大学生より早稲田生といる方が落ち着くんだー
「何者かになりたい」人たちが集まる個性の強い場所だから、自分も影響されてこうなってしまったんだなー
今の常識は社会に出たら通用しないんだー
そっかそっかそっかーーー…..
恋愛の話に戻ると、大きな世界を見ているようで小さな世界の常識の中で生きてきたからこのようなワセジョの私に魅力を感じる男性は必然的に少なくなるんですね。
もう自ら母数を絞ってしまったような感じなんですかね。
いや、こんな表現を使わなくてもただ単に可愛くない、可愛げがない。これに尽きる(笑)
結論。
ワセジョという幻影はモテない理由になっています。
しかしです。
この「何者かになりたい願望」が社会を変える可能性だってあるんです。理想で終わるかもしれませんが、そんな人といるとワクワクしませんか?夢を語れる人は皆かっこよく見えませんか?
それには女性も男性もワセジョも関係なくて、そんな人たちがいる世界の方が楽しいと思っています。だから私はこの狭い常識内でのエネルギーも、外に発し続けていきたいです。
っと思うのもワセジョという幻影に染まり切ったからなのかもしれないですね。
ワセジョプロジェクトも乞うご期待♡
※紹介ブログではワセジョという虎の威は早く脱げと表現していますが、私の中ではワセジョを虎の威としているワセジョは論外です。ワセジョは目指すものでなく、浸透していくものです。ワセジョだから~とか、~はワセジョっぽいとか表現は邪道。